後藤圭子

- 鎌倉彫 -

博古堂


博古堂は禅宗寺院の仏像の制作のために奈良からきた慶派の仏師達の末裔が当主であった後藤家によって「仏師後藤齋宮工場 鎌倉彫製作部」として始まりました。 鎌倉彫の起源は、江戸時代の文献に「鎌倉彫は四條帝の御宇、運慶の孫康運(こううん)の男康圓(こうえん)、陳和鸂(ちんないけい)と共に法華堂の仏具を彫りたるを始とす」とあり、遠く鎌倉時代までさかのぼります。仏具や茶道具の制作に携わっていたのは仏師でしたしかし、明治新政府の公布した神仏分離令は、廃仏釈の運動を引き起こし、寺院の衰退から仏師の仕事は激減しました。 この頃、鎌倉では、多くの仏師が転職を余儀なくされる中で、二人の仏師が活躍します。一人は後藤齋宮(ごとういつき)、もうひとりは三橋鎌山(みつはしけんざん)でした。二人は仏像彫刻の技術を生かしながら、新しい活路を鎌倉彫に見いだし、今日の発展の基礎を築きました。 また、明治政府は政策に富国強兵、殖産興業を掲げ、国内産業を大いに奨励しました明治十年代には内国勧業博覧会に連続して鎌倉彫を出展し、受賞の栄誉に輝いています。
菓子器
鎌倉彫の印象は花や枝物のお盆や下駄のお見上げ物、鎌倉彫教室など地域の産業でした。鶴岡八幡宮の鳥居脇に店を構える博古堂で本作を拝見した時、そのモダンなデザイン、大胆な間、彫りの美しさに感動しました。デザインによって世界に発信できる工芸だと思いました。